出禁、解禁、そして出禁
先日記載した「加害者にさせない為に」の続きです。
5月半ば、実家の車を廃車にしました。
父がふと漏らした「廃車にするかぁ」
そのひと言が切っ掛けでした。
そのひと言を引き出す為に画策したのは、この私です。
廃車の翌週いつもと変わらず実家を訪ねると、
父もまた、いつもと変わらず居間に横たわり
いつもと変わらぬ時代劇にぼんやりと目を遣っていました。
暫くすると父は、不意にこう呟きました。
「車、あれ、いくら掛かったんだ?」
廃車に掛かった費用のことを尋ねているのです。
「お金は掛からなかったよ。
サービスで、してくれたんじゃない?」
実際のところサービスで手続きが済んだ訳ではありません。
父に「良い記憶」を植え付けたいという私自身の思惑が、
そう言わせていたのです。
「ふーん」
然程興味がある訳でもなかったのか、
父は軽く鼻を鳴らすと
その日はもう車について触れることはありませんでした。

掻いてる時ってさ、変顔になっちゃうんだよ
更に翌週実家を訪れると、
父は再び私に訊ねました。
「車、あれ、いくら掛かったんだ?」
「お金は取られてないよ。サービスでしてくれたから」
「じゃあ、いくらか(謝礼を)持たせれば良かったなぁ」
父は、非常に義理堅い人間です。
好意で手続きを済ませてくれたという担当者に義理を通すことに、
この時の父は感情を支配されていました。
「まぁ、いいんじゃない? ずっとあそこで(車を)買ってたんだし」
「ふーん」
更に翌週、
父は新たな質問を準備し私を待ち構えていました。
「車、あれ、いくらで売れたんだ?」
「え? ……売ってないよ」
そもそも、売れるような代物ではありません。
中古車買取店へ持ち込んだところで、
手数料を取られるのが関の山という程度のものでした。
更に翌週実家を訪ねると……。
「車、あれ、販売店の奴が売っちゃったんだろ?」
「え? 車は、売ってないよ」
「うちから持って行った車、売り飛ばしちゃったんだよ!
それで販売店の奴が儲けてるに違いないんだ!」
父は、独り苛立っていました。
完全なる妄想に支配されてしまっていたのです。
「そんな訳、ないけどね」
父の耳に届かぬよう、私は小さく抵抗してみせました。
暴走にも似た妄想に呆れ返ると同時に、
そんなことを平気で口走る父のことが嘆かわしく、
私は侮蔑にも似た感情を持て余していたのです。
「認知症だから運転を止めさせなきゃ」
口ではそう言いながら私はまだ、
父に“まとも”であることを強く望んでいたのかもしれません。

「帰ってシャンプーだよ~」と言うと……、
動かない
父は車に対し拘りのない人間だったように思います。
カタログを捲っただけで車を決めてしまっていたし、
我が家の車庫に入るのはいつも似たり寄ったりの車で、
買い替えたことに私たちが気付かないことすら多々ありましたから。
そんな父が唐突に車への執着を見せ始めたのですから、
こちらの計算も狂うというもの。
「まだ廃車になってないだろ? 買い戻すよ」
「もっと小さいのでいいんだよな。軽(自動車)でも買うか」
「中古でいいんだよ。新しいの買わなくちゃ」
そう先を急ぐ父の発言は、
姉を大いに戸惑わせましたね。
そんな父が車への更なる執着心を露わにし、
頻繁に電話を掛けて寄越すようになったのは、
廃車手続きから数週間が過ぎた頃のことです。
「廃車に費用は掛かったのか?」
「車を買い戻すんだから、販売店に連絡しろ!」
「(廃車を証明する)書類はいつになったら届くんだ?」
それでもこの頃は、
同じ質問を寄越し同じ答えを返し……ということこそあれ、
手続き自体には理解を示していたようにも思います。
それが……、
車庫から車が消えひと月が過ぎふた月が過ぎようとする頃には、
「お前、なんで廃車にしちゃったんだ!」
「勝手なことして。なんで、俺から車取っちゃったんだ!」
「車、売り飛ばしちゃったんだろ? 売った金はどうした?」
「お前さぁ、なんで廃車にしちゃったの?」
……というふうに変化を遂げることとなり。
父はそれこそ執拗に電話を掛けて寄越しましたが、
なぜ廃車にしたのか、
その理由を私が告げることはありませんでした。
「呆けてきちゃってるから」「事故を起こしかねないから」
決して口走ってはいけない台詞でした。
父の妄言に反論するのは容易いことでしたが、
私は一切を呑み込み只管口を噤み続けたのです。
「廃車にするかぁ」と口にしたことも、
自ら販売店へ電話を掛けたことも、
父の中からは既に消えてなくなった記憶です。
私は体調を崩し、実家からは足が遠退き、
コソコソと姉に連絡を取っては、
父の様子を窺いました。

シャ、シャンプーするって、かーちゃん……
ちょうどその頃のことでしたね、
親戚をも巻き込むような電話を父が掛けて寄越したのは。
「昔からの友達が亡くなったんだよ。
車が無いから葬式にも行けないじゃないかっ!」
父の話によると「たった今、姉から電話があった。
昔世話になった○○が亡くなったと聞いた。
車が無いから、線香をあげに行くこともできない」
ということでした。
姉というのは、95歳になる父の姉のことです。
すぐさま彼女に近しい親戚に連絡を取りました。
曰く「95歳の姉は電話などしていないし、
父のいう友人が亡くなったのはもう随分昔のことだ」
という話なのです。
この95歳の伯母、非常に矍鑠として未だ独り暮らしを続けており、
どちらの話を信じるかと問われれば、
父の心配をせざるを得ないというのが正直なところです。
「もー、呆けちゃったんじゃないのぉ?」
95歳の伯母にも彼女に近しい叔母にも、
父の状態を不安視される結果となってしまいました。
夢でも見ていたのか認知症のなせる業なのか、
父がなぜそのようなことを口走ったのかは分からず仕舞いです。
それより何より私が気に掛かったのは、
そんな妄想を盾に私のことを責め立てる父の声が、
悲しみに打ち震えているように聞こえていたということでした。
「お前はいつもそうだ。お節介して、余計なことして。
車が無くて、これからどうするんだ!」
そう声を荒げる父の声は、
話半ばから涙声に変っていたように感じます。
父の怒りは、悲しみの裏返しでした。
それでは、その悲しみはいったいどこにあるのでしょう。
車という財産を取り上げられたことにでしょうか、
車と一緒に家族の思い出までも廃棄されてしまった
そう感じているからなのでしょうか。

学生時代、友人との軽井沢旅行で買ってきたお土産。
車を何台乗り換えても、
フロントガラスではいつもこのキツネが揺れていて。
その後父は私に実家への「出入り禁止」を言い渡し、
数日経つと「○○(←私のこと)はいつ来るんだろうなぁ」と口にし、
その後再び「『二度と来るな』と言っておけ」と姉に告げたかと思うと、
数日後には「家族なのだから出入り自由に」との書き置きを
姉の目の付くところに残すといったように、
日中独りきりで過ごす部屋で、
葛藤を続けていたように思います。
実家への「出入り禁止」
父の思いとは恐らく相反することとなるのでしょうが、
不思議なことに私が苦痛を覚えることはありませんでした。
「なぜ廃車にせざるを得なかったのか」
その理由について頑なに口を閉ざさねばならない状況から解放された、
そう感じていたからかもしれません。
ただ気掛かりなのは、父と同居する姉のことだけ。
彼女の助けとなれない状況を招いてしまった自身の性急さに、
私は胸を痛めていました。
「廃車」が何よりも優先されるべきものだと信じ、
「廃車」が父や家族を守る術だと信じて疑わない私は、
あの時の父の、
小さな抵抗に気付くことができなかったのです。
「廃車にするかぁ」
消え入るような声でそう呟いた時の父は、
遠く壁に目を遣ったまま、
私の顔を見据えようとしてはいませんでした。
翌週再び「廃車」を口にせざるを得なくなった時もまた、
父が私の目を見ることはなかったように思うのです。
自身の思いを優先するあまり、
それが、父が心底望むことなのか見極める時間と労力を、
私はただ惜しんだに過ぎないのです。
それからは「出禁」が「解禁」となり、
その後更なる「出禁」が発令されることになると、
私の足が実家へ向かうこともなくなりました。
そして7月が過ぎ8月が過ぎ、
父との関係も今ではすっかり様変わりしてしまいました。
あぁ、長くなってきたので、また書きます。

「出禁」とかさ、かーちゃん、何やらかしたのぉ?
たもちゃ~ん、笑うとこじゃないぞーっ
5月半ば、実家の車を廃車にしました。
父がふと漏らした「廃車にするかぁ」
そのひと言が切っ掛けでした。
そのひと言を引き出す為に画策したのは、この私です。
廃車の翌週いつもと変わらず実家を訪ねると、
父もまた、いつもと変わらず居間に横たわり
いつもと変わらぬ時代劇にぼんやりと目を遣っていました。
暫くすると父は、不意にこう呟きました。
「車、あれ、いくら掛かったんだ?」
廃車に掛かった費用のことを尋ねているのです。
「お金は掛からなかったよ。
サービスで、してくれたんじゃない?」
実際のところサービスで手続きが済んだ訳ではありません。
父に「良い記憶」を植え付けたいという私自身の思惑が、
そう言わせていたのです。
「ふーん」
然程興味がある訳でもなかったのか、
父は軽く鼻を鳴らすと
その日はもう車について触れることはありませんでした。

掻いてる時ってさ、変顔になっちゃうんだよ

更に翌週実家を訪れると、
父は再び私に訊ねました。
「車、あれ、いくら掛かったんだ?」
「お金は取られてないよ。サービスでしてくれたから」
「じゃあ、いくらか(謝礼を)持たせれば良かったなぁ」
父は、非常に義理堅い人間です。
好意で手続きを済ませてくれたという担当者に義理を通すことに、
この時の父は感情を支配されていました。
「まぁ、いいんじゃない? ずっとあそこで(車を)買ってたんだし」
「ふーん」
更に翌週、
父は新たな質問を準備し私を待ち構えていました。
「車、あれ、いくらで売れたんだ?」
「え? ……売ってないよ」
そもそも、売れるような代物ではありません。
中古車買取店へ持ち込んだところで、
手数料を取られるのが関の山という程度のものでした。
更に翌週実家を訪ねると……。
「車、あれ、販売店の奴が売っちゃったんだろ?」
「え? 車は、売ってないよ」
「うちから持って行った車、売り飛ばしちゃったんだよ!
それで販売店の奴が儲けてるに違いないんだ!」
父は、独り苛立っていました。
完全なる妄想に支配されてしまっていたのです。
「そんな訳、ないけどね」
父の耳に届かぬよう、私は小さく抵抗してみせました。
暴走にも似た妄想に呆れ返ると同時に、
そんなことを平気で口走る父のことが嘆かわしく、
私は侮蔑にも似た感情を持て余していたのです。
「認知症だから運転を止めさせなきゃ」
口ではそう言いながら私はまだ、
父に“まとも”であることを強く望んでいたのかもしれません。

「帰ってシャンプーだよ~」と言うと……、
動かない

父は車に対し拘りのない人間だったように思います。
カタログを捲っただけで車を決めてしまっていたし、
我が家の車庫に入るのはいつも似たり寄ったりの車で、
買い替えたことに私たちが気付かないことすら多々ありましたから。
そんな父が唐突に車への執着を見せ始めたのですから、
こちらの計算も狂うというもの。
「まだ廃車になってないだろ? 買い戻すよ」
「もっと小さいのでいいんだよな。軽(自動車)でも買うか」
「中古でいいんだよ。新しいの買わなくちゃ」
そう先を急ぐ父の発言は、
姉を大いに戸惑わせましたね。
そんな父が車への更なる執着心を露わにし、
頻繁に電話を掛けて寄越すようになったのは、
廃車手続きから数週間が過ぎた頃のことです。
「廃車に費用は掛かったのか?」
「車を買い戻すんだから、販売店に連絡しろ!」
「(廃車を証明する)書類はいつになったら届くんだ?」
それでもこの頃は、
同じ質問を寄越し同じ答えを返し……ということこそあれ、
手続き自体には理解を示していたようにも思います。
それが……、
車庫から車が消えひと月が過ぎふた月が過ぎようとする頃には、
「お前、なんで廃車にしちゃったんだ!」
「勝手なことして。なんで、俺から車取っちゃったんだ!」
「車、売り飛ばしちゃったんだろ? 売った金はどうした?」
「お前さぁ、なんで廃車にしちゃったの?」
……というふうに変化を遂げることとなり。
父はそれこそ執拗に電話を掛けて寄越しましたが、
なぜ廃車にしたのか、
その理由を私が告げることはありませんでした。
「呆けてきちゃってるから」「事故を起こしかねないから」
決して口走ってはいけない台詞でした。
父の妄言に反論するのは容易いことでしたが、
私は一切を呑み込み只管口を噤み続けたのです。
「廃車にするかぁ」と口にしたことも、
自ら販売店へ電話を掛けたことも、
父の中からは既に消えてなくなった記憶です。
私は体調を崩し、実家からは足が遠退き、
コソコソと姉に連絡を取っては、
父の様子を窺いました。

シャ、シャンプーするって、かーちゃん……

ちょうどその頃のことでしたね、
親戚をも巻き込むような電話を父が掛けて寄越したのは。
「昔からの友達が亡くなったんだよ。
車が無いから葬式にも行けないじゃないかっ!」
父の話によると「たった今、姉から電話があった。
昔世話になった○○が亡くなったと聞いた。
車が無いから、線香をあげに行くこともできない」
ということでした。
姉というのは、95歳になる父の姉のことです。
すぐさま彼女に近しい親戚に連絡を取りました。
曰く「95歳の姉は電話などしていないし、
父のいう友人が亡くなったのはもう随分昔のことだ」
という話なのです。
この95歳の伯母、非常に矍鑠として未だ独り暮らしを続けており、
どちらの話を信じるかと問われれば、
父の心配をせざるを得ないというのが正直なところです。
「もー、呆けちゃったんじゃないのぉ?」
95歳の伯母にも彼女に近しい叔母にも、
父の状態を不安視される結果となってしまいました。
夢でも見ていたのか認知症のなせる業なのか、
父がなぜそのようなことを口走ったのかは分からず仕舞いです。
それより何より私が気に掛かったのは、
そんな妄想を盾に私のことを責め立てる父の声が、
悲しみに打ち震えているように聞こえていたということでした。
「お前はいつもそうだ。お節介して、余計なことして。
車が無くて、これからどうするんだ!」
そう声を荒げる父の声は、
話半ばから涙声に変っていたように感じます。
父の怒りは、悲しみの裏返しでした。
それでは、その悲しみはいったいどこにあるのでしょう。
車という財産を取り上げられたことにでしょうか、
車と一緒に家族の思い出までも廃棄されてしまった
そう感じているからなのでしょうか。

学生時代、友人との軽井沢旅行で買ってきたお土産。
車を何台乗り換えても、
フロントガラスではいつもこのキツネが揺れていて。
その後父は私に実家への「出入り禁止」を言い渡し、
数日経つと「○○(←私のこと)はいつ来るんだろうなぁ」と口にし、
その後再び「『二度と来るな』と言っておけ」と姉に告げたかと思うと、
数日後には「家族なのだから出入り自由に」との書き置きを
姉の目の付くところに残すといったように、
日中独りきりで過ごす部屋で、
葛藤を続けていたように思います。
実家への「出入り禁止」
父の思いとは恐らく相反することとなるのでしょうが、
不思議なことに私が苦痛を覚えることはありませんでした。
「なぜ廃車にせざるを得なかったのか」
その理由について頑なに口を閉ざさねばならない状況から解放された、
そう感じていたからかもしれません。
ただ気掛かりなのは、父と同居する姉のことだけ。
彼女の助けとなれない状況を招いてしまった自身の性急さに、
私は胸を痛めていました。
「廃車」が何よりも優先されるべきものだと信じ、
「廃車」が父や家族を守る術だと信じて疑わない私は、
あの時の父の、
小さな抵抗に気付くことができなかったのです。
「廃車にするかぁ」
消え入るような声でそう呟いた時の父は、
遠く壁に目を遣ったまま、
私の顔を見据えようとしてはいませんでした。
翌週再び「廃車」を口にせざるを得なくなった時もまた、
父が私の目を見ることはなかったように思うのです。
自身の思いを優先するあまり、
それが、父が心底望むことなのか見極める時間と労力を、
私はただ惜しんだに過ぎないのです。
それからは「出禁」が「解禁」となり、
その後更なる「出禁」が発令されることになると、
私の足が実家へ向かうこともなくなりました。
そして7月が過ぎ8月が過ぎ、
父との関係も今ではすっかり様変わりしてしまいました。
あぁ、長くなってきたので、また書きます。

「出禁」とかさ、かーちゃん、何やらかしたのぉ?

たもちゃ~ん、笑うとこじゃないぞーっ

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