共感する能力
犬や猫はペットとしてどのように人間に寄り添ってきたのか、
数ある動物の中で、犬や猫がペットとして選ばれたのはなぜなのか、
とあるテレビ番組の中で大変興味深い話に触れる機会に恵まれました。
犬には、共感する能力がある。
“ 共感 ”辞書で引いてみました。
他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。
たとえば知り合いがつらい表情をしているとき、
相手が「辛い思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、
自分も辛い感情を持つのがこれである。
通常は、人間に本能的に備わっているものである。
犬がペットとして人間と生活を共にするようになった理由の一つが、
この、共感する能力に恵まれていた為、なのだそうです。
ふ~ん、我が家の ↓

この方で、検証してみました。
あれは、今から1年ほど前のことです。
我が家の ↓

食いしん坊が、
ある日すっかりご飯に手を付けなくなったのです。
「たもちゃん、ご飯食べなさ~い」

どよ~ん
「そうやって我が儘してると知らないよ~」
「ご飯食べなきゃ、オヤツも何にもあげないからね~」

どんより~
「ご飯に飽きちゃってるだけでしょ~?」
「トッピングとか期待してても無駄ですからね~」
それでも、思い出したように僅かばかりのご飯を口にするだけで、
後は身体を横たえ、日がな一日ただぼんやりと過ごしているのです。
あれっ? 本当に具合が悪いのかしら?
夫と相談し、翌日私は彼を病院へ連れて行きました。
幸いなことに、たもつは病院が大好きです。
診察台の上でも落ち着きなく目の端に留まった看護師さんを手招きするたもつの姿に、
「どこも悪くなさそうですね~」
と、医師は苦笑いを浮かべるばかりです。
(勿論、きっちり診察して頂きました)
「ご飯食べないのは、我が儘病ですかねぇ?」
「『我が儘』かどうかは……?(笑) 様子見て、また連れてきてみてください」
結局これといった処置が必要だった訳でもなく、
大好きな先生と看護師さんにじゃれ付いただけのたもつを連れ、
私は病院を後にしました。
病院の帰り道、
私は少し回り道して晩秋にしては温かい日差しの注ぐ河原を、
たもつと共に歩きました。
ゆったりのんびり歩くのは、数日振りのことでした。
少し長めの散歩を終え帰宅すると、
たもつは一目散にいつものご飯が盛られた皿へと向かいました。
カシュカシュカシュ。
たもつがご飯を噛み砕くいつも通りの乾いた音が聞こえてきました。
やっぱり、ただの我が儘病だったんだ……。
その時の私は、半ば安堵し、そして半ば呆れていたのです。
私が大変な思い違いをしていたことに気付いたのは、それから数日後のことでした。
たもつが食べることを拒み、一日グダグダと寝転がってばかりいた2日半。
それは、
実家の母が唐突にその病名と余命とを告知され、
その現実を受け入れようと私が怯えながら過ごした2日半だったのです。
勿論、
「お母さんが死んじゃう、どうしよう」
という事実をたもつが理解していたとは思えません。
それでも、彼は敏感に感じ取っていたのでしょう。
病院の帰り道、なぜか心が落ち着き始めていた私を見て、
彼も心の平穏を取り戻したのだと思うのは、
安易な考えでしょうか。
人の気持ちが容易く彼らに伝わってしまうのなら、
私たちは、喜怒哀楽の “ 喜 ” と “ 楽 ” を感じていられるように、
彼らにもそう感じてもらえるように、
過ごしていけたらいいですよね。
だって彼らはいつだって、

こうして、飼い主さんのことをジーッと見詰めているのですから。
数ある動物の中で、犬や猫がペットとして選ばれたのはなぜなのか、
とあるテレビ番組の中で大変興味深い話に触れる機会に恵まれました。
犬には、共感する能力がある。
“ 共感 ”辞書で引いてみました。
他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。
たとえば知り合いがつらい表情をしているとき、
相手が「辛い思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、
自分も辛い感情を持つのがこれである。
通常は、人間に本能的に備わっているものである。
犬がペットとして人間と生活を共にするようになった理由の一つが、
この、共感する能力に恵まれていた為、なのだそうです。
ふ~ん、我が家の ↓

この方で、検証してみました。
あれは、今から1年ほど前のことです。
我が家の ↓

食いしん坊が、
ある日すっかりご飯に手を付けなくなったのです。
「たもちゃん、ご飯食べなさ~い」

どよ~ん
「そうやって我が儘してると知らないよ~」
「ご飯食べなきゃ、オヤツも何にもあげないからね~」

どんより~
「ご飯に飽きちゃってるだけでしょ~?」
「トッピングとか期待してても無駄ですからね~」
それでも、思い出したように僅かばかりのご飯を口にするだけで、
後は身体を横たえ、日がな一日ただぼんやりと過ごしているのです。
あれっ? 本当に具合が悪いのかしら?
夫と相談し、翌日私は彼を病院へ連れて行きました。
幸いなことに、たもつは病院が大好きです。
診察台の上でも落ち着きなく目の端に留まった看護師さんを手招きするたもつの姿に、
「どこも悪くなさそうですね~」
と、医師は苦笑いを浮かべるばかりです。
(勿論、きっちり診察して頂きました)
「ご飯食べないのは、我が儘病ですかねぇ?」
「『我が儘』かどうかは……?(笑) 様子見て、また連れてきてみてください」
結局これといった処置が必要だった訳でもなく、
大好きな先生と看護師さんにじゃれ付いただけのたもつを連れ、
私は病院を後にしました。
病院の帰り道、
私は少し回り道して晩秋にしては温かい日差しの注ぐ河原を、
たもつと共に歩きました。
ゆったりのんびり歩くのは、数日振りのことでした。
少し長めの散歩を終え帰宅すると、
たもつは一目散にいつものご飯が盛られた皿へと向かいました。
カシュカシュカシュ。
たもつがご飯を噛み砕くいつも通りの乾いた音が聞こえてきました。
やっぱり、ただの我が儘病だったんだ……。
その時の私は、半ば安堵し、そして半ば呆れていたのです。
私が大変な思い違いをしていたことに気付いたのは、それから数日後のことでした。
たもつが食べることを拒み、一日グダグダと寝転がってばかりいた2日半。
それは、
実家の母が唐突にその病名と余命とを告知され、
その現実を受け入れようと私が怯えながら過ごした2日半だったのです。
勿論、
「お母さんが死んじゃう、どうしよう」
という事実をたもつが理解していたとは思えません。
それでも、彼は敏感に感じ取っていたのでしょう。
病院の帰り道、なぜか心が落ち着き始めていた私を見て、
彼も心の平穏を取り戻したのだと思うのは、
安易な考えでしょうか。
人の気持ちが容易く彼らに伝わってしまうのなら、
私たちは、喜怒哀楽の “ 喜 ” と “ 楽 ” を感じていられるように、
彼らにもそう感じてもらえるように、
過ごしていけたらいいですよね。
だって彼らはいつだって、

こうして、飼い主さんのことをジーッと見詰めているのですから。
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