帰ってきたよ
「まだ温もりが残っているのに」の続きです。
たもつが息を引き取ってから30時間。
そろそろ、たもつの旅立ちの支度を始めなければなりません。
「どうにか(たもつを)このまま残せないかな……」
直前まで思い切れない様子の夫でしたが、
時計の針に追われることで、ようやく心を決めたようでした。
持って行くものは花とオヤツとそれから……。
あれほど確認し合っていたのに、
いざとなると心が揺さぶられ手際よく動くことができません。

たもつをお気に入りのブランケットで包もうとするも、
身体がくにゃくにゃでその扱いが難しくなっていました。
後にかかりつけの先生に話したところ
「死後硬直が解けた状態」だったことが分かりました。
※解硬:亡くなった後は24時間ほど死後硬直を続け、
その後は死後硬直が始まった順番と同様に、
顎から後肢にかけ筋肉の硬直が緩んでいきます。
※私たちは保冷剤を用いましたが、
冷やし方が充分ではなかったようです
(温もりを失いたくなくて途中保冷剤を外したりした)
さほど暑くないこの時季でも冷房を入れたり
多くのドライアイスを用いたりして、
しっかりと冷してあげることが大切です。
体幹を失ったたもつを抱き家を出ますが、
腕の隙間からすり落ちてしまわないかと気が気ではありません。
夫は駐車場屋上階へ車を取りに行き、
私は胸に抱いたたもつを揺らしながらあやしながら、
車の到着を待ちます。
ふと振り返ると、
ついさっきたもつにお別れを言いに来てくれたお友達が
ベランダに姿を現しているのが目に留まりました。
私は覆っていたブランケットを少しだけずらし、
安らかなたもつの顔を彼女の方へと向けました。
彼女もまた数ヶ月前に愛しい我が子を見送っていました。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
彼女は何度も手を振り、笑顔で私たちを送り出してくれました。
その優しさがとても心に沁みたし、何よりとても心強かったです。
霊園までは車でほんの15分ほど。
その短過ぎる道のり、
たもつが車に乗るのはこれが最後なんだ、そう思うとひどく切ない。
私に抱かれたたもつはもう、
赤ちゃんに戻ったかのような邪気ない表情を見せていました。

介護でオムツを着けているというより、
まだオムツの必要な幼子のようにも見えます。

私たちの天使。本当に可愛いよ。
午後1時、霊園に到着しました。
手続きを済ませ、火葬場へと案内されます。


たもつの周りを花で囲み、
道中お腹を空かせないようにとお友達に頂いた
オヤツを持たせました。
迷った末、オムツは脱がせることにしました。
あちらの世でお友達に会った時、
オムツなんて穿いてたら格好悪いものね。
オムツは綺麗なままでした。
お焼香の後、たもつにありったけの「大好き」を伝えます。

いっぱいいっぱい撫でて、繰り返しキスをして……。
そんな私の振る舞いに、
「かーちゃん、くすぐったいよぉ」と
たもつは頬を赤らめていたかもしれません。
それでも、その感触を私は自らに焼き付けたかったのです。
とうとう、お別れの時がやってきてしまいました。
合掌で見送るその前で、
私たちに尻を向けたたもつが火葬炉の中に吸い込まれていきます。
堪らず、私たちは声を限りに叫びました。
「たもちゃん、ありがとうね」
「たもつーっ!」
「ありがとうね、たもちゃーん!」
「たもちゃーん!!!」
火葬炉の扉がスルスルと落ちてきて、
鈍い音を立てその炉が閉じられた瞬間、
たもつと私たちとの世界がもう異なものになるのだということを
痛いほど思い知らされました。
お寺の広間に通されると
大きなガラス窓から火葬場の建物が見えました。
屋根に目を遣ると、空が揺らめいて見えました。
たもちゃん……。
1時間ほどが過ぎ、再び火葬場へ。
あ……。もう、骨になっちゃったんだね。
それはまるで恐竜の化石のようでした。
その日恐竜柄のTシャツを着ていたことを、
後から夫に呆れられました。
泣き尽くした訳ではありませんでしたが、
お骨を前に不思議と涙は出ませんでした。
頭蓋骨と喉仏と頚椎を避け、他の骨を私たちが二人で拾いました。
脚の骨などはとてもしっかりとしていました。
病気の子はその部分の骨が変色しているとよく聞きますが、
たもつの場合、身体も頭蓋骨も歯もとても綺麗なものでした。
ただ1ヶ所、右下顎骨切除をした付近の骨だけが、
少し黄土色っぽくなっていて、闘いの重さを感じさせられました。
足の爪(の芯部分)4本を入れたカプセルをくださいました。
最後に頭蓋骨が収められ、
そうでなくても小さかったたもつの身体は、
更に小さな骨壺の中へと収められました。
御塔婆は霊園で預かり、供養をしてくださいます。
すべて滞りなく、すべて穏やかな空間の中で、執り行われました。
車に乗り骨壺を抱える私を写真に収めた夫は
「顔が少しスッキリしたね」と言いました。
きちんとお見送りをすることができたことに、
安堵を覚えていました。
霊園からの帰り道、
お世話になったかかりつけの病院を訪ねました。
病院は病と懸命に闘う子たちが来るところ。
既に旅立ったたもつ、骨壺に収まったたもつが
来るところではないと躊躇いもありましたが、
小雨の降る寒い午後で待合室から患者さんの姿も消えたことから、
病院の前で先生と少しお話をすることができました。
助手席に鎮座するたもつの骨壺に気付くと、
先生は「こんなに小さくなっちゃった」と声を震わせました。
そして「撫でさせてもらっても良いですか?」と、
既に骨となったたもつを優しく撫でてくださいました。
「その瞬間に立ち会うことができなかった。
ちゃんと看取ることができなかった」そう嘆くと、
「気付いた時に死後硬直が始まっていなかったのなら、
亡くなってから20分以内だったかと思います」ということでした。
夫が明け方ハッと目覚めたもつの呼吸を確認していたことから
「虫の知らせだったのでは?
たもさんが知らせてくれたのかもしれませんね」と
そう気遣ってくださいました。
そっか、たもつは夫のことを呼んだのかもしれないな。
だって、私より夫の方が泣き虫だもの。
先生たちや看護師さんたちのことが大好きだったたもつ。
病院の自動ドアを自分で開けようと、
せっかちにドアをガリガリやっていたたもつ。
飼い主にも見せたことのないような尻尾ブンブン
お尻フリフリで愛想を振り撒いていたたもつ。
先生が目を潤ませる姿に、私たちもまたもらい泣き。
最後に先生にナデナデしてもらって嬉しいね、たもちゃん。
この日ひっきりなしに降り続いた雨ですが、
霊園へと向かう際、病院前で先生とお別れをする際、
私たちが傘を必要とする時に限り、
少しだけ止み間が訪れたことが不思議でなりません。
我が家の晴れオトコ、たもちゃん。
たもちゃんが、傘を大きく広げてくれたのかな。
2007年12月22日、
生後2ヶ月で我が家に迎えた時には1.9キロだったたもつ。
2021年10月13日、
更に小さく軽くなって
大切な私たちの子たもつは、
我が家に戻ってまいりました。

たもつが息を引き取ってから30時間。
そろそろ、たもつの旅立ちの支度を始めなければなりません。
「どうにか(たもつを)このまま残せないかな……」
直前まで思い切れない様子の夫でしたが、
時計の針に追われることで、ようやく心を決めたようでした。
持って行くものは花とオヤツとそれから……。
あれほど確認し合っていたのに、
いざとなると心が揺さぶられ手際よく動くことができません。

たもつをお気に入りのブランケットで包もうとするも、
身体がくにゃくにゃでその扱いが難しくなっていました。
後にかかりつけの先生に話したところ
「死後硬直が解けた状態」だったことが分かりました。
※解硬:亡くなった後は24時間ほど死後硬直を続け、
その後は死後硬直が始まった順番と同様に、
顎から後肢にかけ筋肉の硬直が緩んでいきます。
※私たちは保冷剤を用いましたが、
冷やし方が充分ではなかったようです
(温もりを失いたくなくて途中保冷剤を外したりした)
さほど暑くないこの時季でも冷房を入れたり
多くのドライアイスを用いたりして、
しっかりと冷してあげることが大切です。
体幹を失ったたもつを抱き家を出ますが、
腕の隙間からすり落ちてしまわないかと気が気ではありません。
夫は駐車場屋上階へ車を取りに行き、
私は胸に抱いたたもつを揺らしながらあやしながら、
車の到着を待ちます。
ふと振り返ると、
ついさっきたもつにお別れを言いに来てくれたお友達が
ベランダに姿を現しているのが目に留まりました。
私は覆っていたブランケットを少しだけずらし、
安らかなたもつの顔を彼女の方へと向けました。
彼女もまた数ヶ月前に愛しい我が子を見送っていました。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
彼女は何度も手を振り、笑顔で私たちを送り出してくれました。
その優しさがとても心に沁みたし、何よりとても心強かったです。
霊園までは車でほんの15分ほど。
その短過ぎる道のり、
たもつが車に乗るのはこれが最後なんだ、そう思うとひどく切ない。
私に抱かれたたもつはもう、
赤ちゃんに戻ったかのような邪気ない表情を見せていました。

介護でオムツを着けているというより、
まだオムツの必要な幼子のようにも見えます。

私たちの天使。本当に可愛いよ。
午後1時、霊園に到着しました。
手続きを済ませ、火葬場へと案内されます。


たもつの周りを花で囲み、
道中お腹を空かせないようにとお友達に頂いた
オヤツを持たせました。
迷った末、オムツは脱がせることにしました。
あちらの世でお友達に会った時、
オムツなんて穿いてたら格好悪いものね。
オムツは綺麗なままでした。
お焼香の後、たもつにありったけの「大好き」を伝えます。

いっぱいいっぱい撫でて、繰り返しキスをして……。
そんな私の振る舞いに、
「かーちゃん、くすぐったいよぉ」と
たもつは頬を赤らめていたかもしれません。
それでも、その感触を私は自らに焼き付けたかったのです。
とうとう、お別れの時がやってきてしまいました。
合掌で見送るその前で、
私たちに尻を向けたたもつが火葬炉の中に吸い込まれていきます。
堪らず、私たちは声を限りに叫びました。
「たもちゃん、ありがとうね」
「たもつーっ!」
「ありがとうね、たもちゃーん!」
「たもちゃーん!!!」
火葬炉の扉がスルスルと落ちてきて、
鈍い音を立てその炉が閉じられた瞬間、
たもつと私たちとの世界がもう異なものになるのだということを
痛いほど思い知らされました。
お寺の広間に通されると
大きなガラス窓から火葬場の建物が見えました。
屋根に目を遣ると、空が揺らめいて見えました。
たもちゃん……。
1時間ほどが過ぎ、再び火葬場へ。
あ……。もう、骨になっちゃったんだね。
それはまるで恐竜の化石のようでした。
その日恐竜柄のTシャツを着ていたことを、
後から夫に呆れられました。
泣き尽くした訳ではありませんでしたが、
お骨を前に不思議と涙は出ませんでした。
頭蓋骨と喉仏と頚椎を避け、他の骨を私たちが二人で拾いました。
脚の骨などはとてもしっかりとしていました。
病気の子はその部分の骨が変色しているとよく聞きますが、
たもつの場合、身体も頭蓋骨も歯もとても綺麗なものでした。
ただ1ヶ所、右下顎骨切除をした付近の骨だけが、
少し黄土色っぽくなっていて、闘いの重さを感じさせられました。
足の爪(の芯部分)4本を入れたカプセルをくださいました。
最後に頭蓋骨が収められ、
そうでなくても小さかったたもつの身体は、
更に小さな骨壺の中へと収められました。
御塔婆は霊園で預かり、供養をしてくださいます。
すべて滞りなく、すべて穏やかな空間の中で、執り行われました。
車に乗り骨壺を抱える私を写真に収めた夫は
「顔が少しスッキリしたね」と言いました。
きちんとお見送りをすることができたことに、
安堵を覚えていました。
霊園からの帰り道、
お世話になったかかりつけの病院を訪ねました。
病院は病と懸命に闘う子たちが来るところ。
既に旅立ったたもつ、骨壺に収まったたもつが
来るところではないと躊躇いもありましたが、
小雨の降る寒い午後で待合室から患者さんの姿も消えたことから、
病院の前で先生と少しお話をすることができました。
助手席に鎮座するたもつの骨壺に気付くと、
先生は「こんなに小さくなっちゃった」と声を震わせました。
そして「撫でさせてもらっても良いですか?」と、
既に骨となったたもつを優しく撫でてくださいました。
「その瞬間に立ち会うことができなかった。
ちゃんと看取ることができなかった」そう嘆くと、
「気付いた時に死後硬直が始まっていなかったのなら、
亡くなってから20分以内だったかと思います」ということでした。
夫が明け方ハッと目覚めたもつの呼吸を確認していたことから
「虫の知らせだったのでは?
たもさんが知らせてくれたのかもしれませんね」と
そう気遣ってくださいました。
そっか、たもつは夫のことを呼んだのかもしれないな。
だって、私より夫の方が泣き虫だもの。
先生たちや看護師さんたちのことが大好きだったたもつ。
病院の自動ドアを自分で開けようと、
せっかちにドアをガリガリやっていたたもつ。
飼い主にも見せたことのないような尻尾ブンブン
お尻フリフリで愛想を振り撒いていたたもつ。
先生が目を潤ませる姿に、私たちもまたもらい泣き。
最後に先生にナデナデしてもらって嬉しいね、たもちゃん。
この日ひっきりなしに降り続いた雨ですが、
霊園へと向かう際、病院前で先生とお別れをする際、
私たちが傘を必要とする時に限り、
少しだけ止み間が訪れたことが不思議でなりません。
我が家の晴れオトコ、たもちゃん。
たもちゃんが、傘を大きく広げてくれたのかな。
2007年12月22日、
生後2ヶ月で我が家に迎えた時には1.9キロだったたもつ。
2021年10月13日、
更に小さく軽くなって
大切な私たちの子たもつは、
我が家に戻ってまいりました。

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