私のをあげる
「たもちゃん、たもちゃ~ん」
「もし万が一、たもちゃんがアンヨを挫いたら、
私のアンヨをたもちゃんにあげるから
」

「たもちゃん、たもちゃ~ん」
「もし万が一、たもちゃんが病気なんかしたら、
私の内臓をたもちゃんにあげるからねっ
」

「あのさぁ、それが必ずしもたもつの為になるとは限らないと思うけど
」
……なんて、またまた冷めた考えをお持ちの我が夫
「そんなことないよねぇ? 必要ならいつでも私のをあげるからねっ
」
……と、なぜか内臓あげる気満々の私
そんな会話になったというのも、
実は以前より、
あげるべきかあげざるべきか
……延々頭を悩ませていたからなのです
あ、これ勿論、『たもつにあげる』って仮定の話じゃあないですよ
今、私の手元にある「健康保険被保険者証」
これ、この裏面に「臓器提供に関する意思表示」をすることができる欄が設けられているのです
「あ、ちょうど『ドナーカード』作ろうと思ってたんだよね~
」
「臓器? 必要なくなれば、あげるに決まってるじゃ~ん
」
……って、これ、表示を見た時の私の最初の反応です
ですがですが……、
勢い込んでペンを取った筈の私が、
次の瞬間にはもう、その手を止めざるを得なくなっていたんですよね
表示をそのまま転記します。
1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。
2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。
3.私は、臓器を提供しません。
臓器を提供すると意思表示した中でも、
提供したくない臓器を意思表示することができるようになっています。
自分は最早必要としない臓器、
そして、その臓器を必要とする人が存在する現実、
そりゃ、差し上げても構いませんよ、勿論私の場合は……ですが。
……ですが、とっても悩んでしまったんですよね、
1.を選ぶか、はたまた2.を選ぶか……というところで。
私が「あげるあげる」言ったって、
じゃあ、残された人はどうなのよ?ってなる訳じゃあないですか?
逆の立場になって考えてみます……。
大切な人が「自分のをあげてもいいよ~」と言ったとします。
でもでも、色んな可能性に掛けてみたい私は、
「そりゃ、そんな簡単に差し上げる訳にはいかないよぉ」
と、なるかもしれません。
……だから、
『臓器提供に関する意思表示』
私は未だに明確に表示することができずにいるんです。
それから、もっともっと深~い闇をお話ししますと……。
実は、
臓器提供の意思を表明した途端、
あっさり逝くことになっちゃったりして
なんていう馬鹿げた妄想に気持ちを掻き乱されているというのが、
書き渋っている理由の一つでもあるんです。
一昨年、突然母の病名と余命とを聞かされ、
伝えられていたより早く母が逝ってしまうと、
「死」に対する印象は、
以前より私の中で抱えていたそれとは全く異なるものに変わり……。
そう、映画や小説の中に見るような『ヤマ場』なんか一切なく、
なんとも味気のないあっさりとした展開で迎える、
とても淡々とした日常の延長のような瞬間として、
「死」というものが、記憶に刻み込まれてしまったんですよね。
……だから、
私自身のその瞬間も、
存外そんなあっさりとした感じで迎えることになったりして、
なんて、つい考えてしまい……。
『臓器提供の意思表示』をした途端、
タイミングよく、そんな瞬間が訪れてもオカシクないんだよね、
と、なんだかモヤモヤ馬鹿みたいなことを、
延々考え続けている最近の私なのです。
「もぉ~、いいからさっさと書いちゃいなよ」
って思ってる人、たくさんいますよね、すみません
あ、でも勿論、
大切なこの方々が必要とあらば、
いつでも差し上げる準備はできています

……で、「どっち優先?」って訊かれたら?

それは……、
内緒ですよ~ん

へ? おいら
「もし万が一、たもちゃんがアンヨを挫いたら、
私のアンヨをたもちゃんにあげるから


「たもちゃん、たもちゃ~ん」
「もし万が一、たもちゃんが病気なんかしたら、
私の内臓をたもちゃんにあげるからねっ


「あのさぁ、それが必ずしもたもつの為になるとは限らないと思うけど

……なんて、またまた冷めた考えをお持ちの我が夫

「そんなことないよねぇ? 必要ならいつでも私のをあげるからねっ

……と、なぜか内臓あげる気満々の私

そんな会話になったというのも、
実は以前より、
あげるべきかあげざるべきか
……延々頭を悩ませていたからなのです

あ、これ勿論、『たもつにあげる』って仮定の話じゃあないですよ

今、私の手元にある「健康保険被保険者証」
これ、この裏面に「臓器提供に関する意思表示」をすることができる欄が設けられているのです

「あ、ちょうど『ドナーカード』作ろうと思ってたんだよね~

「臓器? 必要なくなれば、あげるに決まってるじゃ~ん

……って、これ、表示を見た時の私の最初の反応です

ですがですが……、
勢い込んでペンを取った筈の私が、
次の瞬間にはもう、その手を止めざるを得なくなっていたんですよね

表示をそのまま転記します。
1.私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。
2.私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。
3.私は、臓器を提供しません。
臓器を提供すると意思表示した中でも、
提供したくない臓器を意思表示することができるようになっています。
自分は最早必要としない臓器、
そして、その臓器を必要とする人が存在する現実、
そりゃ、差し上げても構いませんよ、勿論私の場合は……ですが。
……ですが、とっても悩んでしまったんですよね、
1.を選ぶか、はたまた2.を選ぶか……というところで。
私が「あげるあげる」言ったって、
じゃあ、残された人はどうなのよ?ってなる訳じゃあないですか?
逆の立場になって考えてみます……。
大切な人が「自分のをあげてもいいよ~」と言ったとします。
でもでも、色んな可能性に掛けてみたい私は、
「そりゃ、そんな簡単に差し上げる訳にはいかないよぉ」
と、なるかもしれません。
……だから、
『臓器提供に関する意思表示』
私は未だに明確に表示することができずにいるんです。
それから、もっともっと深~い闇をお話ししますと……。
実は、
臓器提供の意思を表明した途端、
あっさり逝くことになっちゃったりして

なんていう馬鹿げた妄想に気持ちを掻き乱されているというのが、
書き渋っている理由の一つでもあるんです。
一昨年、突然母の病名と余命とを聞かされ、
伝えられていたより早く母が逝ってしまうと、
「死」に対する印象は、
以前より私の中で抱えていたそれとは全く異なるものに変わり……。
そう、映画や小説の中に見るような『ヤマ場』なんか一切なく、
なんとも味気のないあっさりとした展開で迎える、
とても淡々とした日常の延長のような瞬間として、
「死」というものが、記憶に刻み込まれてしまったんですよね。
……だから、
私自身のその瞬間も、
存外そんなあっさりとした感じで迎えることになったりして、
なんて、つい考えてしまい……。
『臓器提供の意思表示』をした途端、
タイミングよく、そんな瞬間が訪れてもオカシクないんだよね、
と、なんだかモヤモヤ馬鹿みたいなことを、
延々考え続けている最近の私なのです。
「もぉ~、いいからさっさと書いちゃいなよ」
って思ってる人、たくさんいますよね、すみません

あ、でも勿論、
大切なこの方々が必要とあらば、
いつでも差し上げる準備はできています


……で、「どっち優先?」って訊かれたら?

それは……、
内緒ですよ~ん


へ? おいら

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