一桁違うのよ
「そういえば、あんた昔から飼いたがってたもんねぇ、犬」
たもつを我が家に迎え暫くした頃、姉から言われた言葉です。
それまでは、全くと言っていい程思い出すことはありませんでした、幼い頃犬を買って欲しいと度々親に強請っていたこと。
あれは、私が小学校三年生くらいの頃のことだと思います。
自宅から歩いて十分程のところに、細々と営むペットショップが一軒ありました。
子供ながらに“細々”と感じたのは、その店が比較的安価な小鳥や小動物ばかり扱っていたせいかもしれません。
個人宅の一階を店舗に変えただけのその店はひどく狭く、店内の空気は細かな塵と舞い上がった羽毛でいつも淀んでいたのを覚えています。
店に一歩踏み入れると、独特の臭いが鼻を突きます。それでも怖いもの見たさに背中を押され、私は度々友人とその店を冷やかしに出掛けました。
主に扱っているのはインコなどの小鳥とハムスターなどの小動物。
無数の鳥籠が積み上げられたその中で、鳥籠より一回り大きく頑丈に見える檻が私の目を惹きました。
ハムスターやリスより大型な生物が住まうこともあるのだろうか。
友人も私も、店を訪れてはその檻の中を確認するのが常になっていました。
しかし、その檻に住人がいることは滅多になく、店が犬猫の取り扱いに注力していないことを思わせました。
それから暫くしたある日、私たちは例の檻の中に新たな命を見付けたのです。
白くて小さなその檻の新しい住人は、当時世間で流行っていたマルチーズでした。
今でこそ生後二ヵ月未満の子犬がホームセンターのペットコーナーに並ぶようになりましたが、当時そのような月齢の子犬が消費者の手に渡るのは稀なことで、その店の子犬もその時既に生後半年かそれ以上を過ぎていたように思います。
久しぶりに入荷された真っ白なマルチーズに、友人たちは勿論、私もすっかり心を奪われていました。
「お父さんに、買って貰おうかな」
「いいなぁ。私も欲しいけど『うちは団地だからダメ』って言われちゃう」
「うちはお母さんが犬好きだから、買ってくれるかもしれない」
誰もがその白い塊を手に入れようと、互いを牽制し合っているのが分かりました。
一刻も早く親を説得しなければ、そう他の誰よりも早く。
そのマルチーズに心惹かれていることを、皆の前で私は敢えて口に出しませんでした。
それは、彼らにライバル視されるのを懼れたからに違いありません。
その後友人たちが散り散りになると、逸る気持ちを抑えながら私は自宅へと急ぎました。
そしてその道すがら、唯一人「団地だから飼えない」と零していた友人に、私は自分の気持ちをそっと打ち明けたのです。
「私は、飼ってもいいかどうか、お母さんに訊いてみようと思う」
彼女にだけそう打ち明けたのは、彼女は最早ライバルではない、そう確信したからでした。
自らの狡猾さと非情さに戸惑いを覚えながら、一方で私はその犬を手に入れる術にただ只管頭を廻らせていたのです。
あの言葉を口に出しさえすれば、恐らく母は容易に首を縦に振るだろう。
自分には決定打がある、その時の私はそう信じて疑わなかったのです。
「お母さん、犬買って」
帰宅早々、私は母にそう訴え掛けました。
「え?」
「ねっ、いいでしょう? だって、すごく安いんだよ」
「でも、安いって言っても……」
「本当だよ。本当に安いんだよ。だって、5千円だもん」
「え?」
驚きの声を上げたのは、母だけではありませんでした。
読書に夢中になっていた筈の姉も、私の言葉に思わずその顔を上げました。
「5千円?」
「そう、5千円」
5千円なら、お正月に集めたお年玉だけで充分賄える金額です。
小学生でも容易く払えるその金額を親が出し渋る筈もないだろう、私はそう高を括っていました。
「ねっ? いいでしょう?」
「ねえ、本当に5千円なの?」
「うん。本当に、5千円。だって、ちゃんと見てきたもん」
母の隣で話に聞き入っていた姉は訝しげな表情を浮かべていましたが、私は全くと言っていい程気になりませんでした。
思わぬ掘り出し物を見付けた私に、姉は嫉妬しているに違いない、私は内心勝ち誇っていたのです。
「本当に5千円なら、買ってあげてもいいけど」
「本当!?」
「うん。でも、ちょっと一緒に見に行ってみようか、そのお店に」
「そうだよ。一緒に見に行こうよ」
そう言って挑発してみせる姉に対しても、私は実に寛容でした。
「いいよ。一緒に見に行こうよ」
そして夕飯の支度も等閑に、母は私たち姉妹を従え例のペットショップへと向かったのです。
今考えれば、母はその時既に事の次第を理解していたのかもしれません。
「ほら、この犬だよ」
「へぇ、この犬なの?」
「いらっしゃいませ」
人声に、奥から店の女性が姿を現しました。
「お母さん、欲しい~」
「このワンちゃん? 触ってみる?」
女性の手が檻の鍵に延びるのを見ると、母は慌てた様子で妙な言い訳を口にしました。
「すみません。この子が『ワンちゃんが、5千円だ』って言うものですから」
「へっ!? 5千円? ……あぁ。これ、5千円じゃなくて5万円なのよ、お嬢ちゃん」
「そうですよねぇ、幾らなんでも5千円なんてねぇ」
先程まで娘の言葉に耳を傾けていた筈の母が、掌を返すように店の女性に迎合するその姿に、私は失望せずにいられませんでした。
「ごめんね、一桁違うのよ。5,000円と50,000円、見間違えちゃったかな?」
私は全身がカーッと熱くなるのを覚えました。
押し黙ったまま唇を噛む私の姿に、嘲笑していた筈の姉もただ気の毒そうに弱々しい笑みを浮かべるばかりです。
その後暫くの間、私の足はペットショップから遠退いたままでした。
小学生の足で訪ね歩ける範囲に犬を扱うペットショップは他になく、いつしか私は犬を飼うという夢を自らの中から消し去ったのでした。
あれから数十年、今思えばあの当時親から犬を買い与えられどれほど大切に育てることができただろかと疑問に感じることもあります。
誰かを育てるだけ成長して初めて、たもつが私のところに来てくれた、そんな気もしているからです。
でも、育てられているのはたもつではなく、寧ろ私たち夫婦の方かもしれません。

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こんなに大きく成長しました

たもつを我が家に迎え暫くした頃、姉から言われた言葉です。
それまでは、全くと言っていい程思い出すことはありませんでした、幼い頃犬を買って欲しいと度々親に強請っていたこと。
あれは、私が小学校三年生くらいの頃のことだと思います。
自宅から歩いて十分程のところに、細々と営むペットショップが一軒ありました。
子供ながらに“細々”と感じたのは、その店が比較的安価な小鳥や小動物ばかり扱っていたせいかもしれません。
個人宅の一階を店舗に変えただけのその店はひどく狭く、店内の空気は細かな塵と舞い上がった羽毛でいつも淀んでいたのを覚えています。
店に一歩踏み入れると、独特の臭いが鼻を突きます。それでも怖いもの見たさに背中を押され、私は度々友人とその店を冷やかしに出掛けました。
主に扱っているのはインコなどの小鳥とハムスターなどの小動物。
無数の鳥籠が積み上げられたその中で、鳥籠より一回り大きく頑丈に見える檻が私の目を惹きました。
ハムスターやリスより大型な生物が住まうこともあるのだろうか。
友人も私も、店を訪れてはその檻の中を確認するのが常になっていました。
しかし、その檻に住人がいることは滅多になく、店が犬猫の取り扱いに注力していないことを思わせました。
それから暫くしたある日、私たちは例の檻の中に新たな命を見付けたのです。
白くて小さなその檻の新しい住人は、当時世間で流行っていたマルチーズでした。
今でこそ生後二ヵ月未満の子犬がホームセンターのペットコーナーに並ぶようになりましたが、当時そのような月齢の子犬が消費者の手に渡るのは稀なことで、その店の子犬もその時既に生後半年かそれ以上を過ぎていたように思います。
久しぶりに入荷された真っ白なマルチーズに、友人たちは勿論、私もすっかり心を奪われていました。
「お父さんに、買って貰おうかな」
「いいなぁ。私も欲しいけど『うちは団地だからダメ』って言われちゃう」
「うちはお母さんが犬好きだから、買ってくれるかもしれない」
誰もがその白い塊を手に入れようと、互いを牽制し合っているのが分かりました。
一刻も早く親を説得しなければ、そう他の誰よりも早く。
そのマルチーズに心惹かれていることを、皆の前で私は敢えて口に出しませんでした。
それは、彼らにライバル視されるのを懼れたからに違いありません。
その後友人たちが散り散りになると、逸る気持ちを抑えながら私は自宅へと急ぎました。
そしてその道すがら、唯一人「団地だから飼えない」と零していた友人に、私は自分の気持ちをそっと打ち明けたのです。
「私は、飼ってもいいかどうか、お母さんに訊いてみようと思う」
彼女にだけそう打ち明けたのは、彼女は最早ライバルではない、そう確信したからでした。
自らの狡猾さと非情さに戸惑いを覚えながら、一方で私はその犬を手に入れる術にただ只管頭を廻らせていたのです。
あの言葉を口に出しさえすれば、恐らく母は容易に首を縦に振るだろう。
自分には決定打がある、その時の私はそう信じて疑わなかったのです。
「お母さん、犬買って」
帰宅早々、私は母にそう訴え掛けました。
「え?」
「ねっ、いいでしょう? だって、すごく安いんだよ」
「でも、安いって言っても……」
「本当だよ。本当に安いんだよ。だって、5千円だもん」
「え?」
驚きの声を上げたのは、母だけではありませんでした。
読書に夢中になっていた筈の姉も、私の言葉に思わずその顔を上げました。
「5千円?」
「そう、5千円」
5千円なら、お正月に集めたお年玉だけで充分賄える金額です。
小学生でも容易く払えるその金額を親が出し渋る筈もないだろう、私はそう高を括っていました。
「ねっ? いいでしょう?」
「ねえ、本当に5千円なの?」
「うん。本当に、5千円。だって、ちゃんと見てきたもん」
母の隣で話に聞き入っていた姉は訝しげな表情を浮かべていましたが、私は全くと言っていい程気になりませんでした。
思わぬ掘り出し物を見付けた私に、姉は嫉妬しているに違いない、私は内心勝ち誇っていたのです。
「本当に5千円なら、買ってあげてもいいけど」
「本当!?」
「うん。でも、ちょっと一緒に見に行ってみようか、そのお店に」
「そうだよ。一緒に見に行こうよ」
そう言って挑発してみせる姉に対しても、私は実に寛容でした。
「いいよ。一緒に見に行こうよ」
そして夕飯の支度も等閑に、母は私たち姉妹を従え例のペットショップへと向かったのです。
今考えれば、母はその時既に事の次第を理解していたのかもしれません。
「ほら、この犬だよ」
「へぇ、この犬なの?」
「いらっしゃいませ」
人声に、奥から店の女性が姿を現しました。
「お母さん、欲しい~」
「このワンちゃん? 触ってみる?」
女性の手が檻の鍵に延びるのを見ると、母は慌てた様子で妙な言い訳を口にしました。
「すみません。この子が『ワンちゃんが、5千円だ』って言うものですから」
「へっ!? 5千円? ……あぁ。これ、5千円じゃなくて5万円なのよ、お嬢ちゃん」
「そうですよねぇ、幾らなんでも5千円なんてねぇ」
先程まで娘の言葉に耳を傾けていた筈の母が、掌を返すように店の女性に迎合するその姿に、私は失望せずにいられませんでした。
「ごめんね、一桁違うのよ。5,000円と50,000円、見間違えちゃったかな?」
私は全身がカーッと熱くなるのを覚えました。
押し黙ったまま唇を噛む私の姿に、嘲笑していた筈の姉もただ気の毒そうに弱々しい笑みを浮かべるばかりです。
その後暫くの間、私の足はペットショップから遠退いたままでした。
小学生の足で訪ね歩ける範囲に犬を扱うペットショップは他になく、いつしか私は犬を飼うという夢を自らの中から消し去ったのでした。
あれから数十年、今思えばあの当時親から犬を買い与えられどれほど大切に育てることができただろかと疑問に感じることもあります。
誰かを育てるだけ成長して初めて、たもつが私のところに来てくれた、そんな気もしているからです。
でも、育てられているのはたもつではなく、寧ろ私たち夫婦の方かもしれません。

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こんなに大きく成長しました

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